帝塚山の歴史

〜別荘の街帝塚山〜

帝塚山古墳は上町台地の西南端住吉丘にあって、古くは玉出塚ともいい、
もともと6世紀における大友氏一族のものと伝えられる大小2基の古墳であ
るが、今日の帝塚山は、その旧大手塚を中心とし高野線と上町線の間に広
がる邸宅街をさす地名である。

帝塚山の立地地形は、台地脊梁が西の急斜面に移る高操な景勝地であるが
その水利難から長らく甘藷やそばの畑となり、部分的には聖天坂の植木市
に影響されて苗木栽培が行われていた。明治後半には、やや郊村化しつつ
あったが、総じて農業的には恵まれなかった。

かかる土地利用形態は、阿倍野街道以西の台地面に共通した特色でもある
が、やがて明治末までの上町台地の市内化と、天王寺のターミナル機能の
充実設備が都市化全線の南下傾向を強めるにいたり、阿倍野の宅地化が促
進された。

現在見られる台地上の住宅景観形成には二つの核が認められる。その一つ
は、南海鉄道の開通が動機となって、1894年(明治27年)に開設を見た天下
茶屋遊園地(94ha)と、その跡地利用による聖天山付近の住宅街である。
他は、高野鉄道・大阪馬車鉄道・阪堺電気軌道を契機として1911年(明治
44年)に始まる東成土地建物株式会社の経営(12.4ha)と耕地整理の実施
(14.3ha)が誘発した帝塚山付近の住宅街である。いずれも農業不振に悩む
地主集団の住宅誘致により、ほぼ大正末までに成立したベットタウンで、
ことに帝塚山住宅地は今もその住民をさして、「帝塚山族」とか「別荘の
人」と呼び、芦屋族と並び称される市内唯一の高級住宅地をなしており、
帝塚山学院(1917年/大正6年設立)・官立大阪高校(1921年/大正10年設
立)・府立女専(1921年/大正14年設立)等は、その環境作りに一役買って
いる。
1996年現在、森氏等により設立された帝塚山学院は、幼稚園・小学校・中
学校・女子高校のみ立地。府立女専は堺の府立大阪女子大に移転し、貿易
専門学校が跡地に。他に大阪公文書図書館が立地している。




万代池公園いまむかし

〜曼陀羅池から桜の名所へ〜


万代池の成り立ちをみてみると、池の西端に熊野街道が接して
通っていることから、上町台地の浸食台をせき止めてつくらせ
た池とされており、明治の中頃までは灌漑池として利用されて
いた。その後宅地化が進むと同時にその利用形態も変わり、昭
和の初めごろには共楽園という遊園地として、春や夏には大層
にぎわっていたようである。


万代池、その名前の由来については、昭和二年発行の住吉村誌
によると「萬代池には古来幾多の伝説があるといわれている。
一つの里老の伝えるところによれば、昔ここには不思議な魔物
が住むとされていた。阿倍野街道を往来する人を悩ませ恐れら
れていたので、聖徳太子は四天王寺から人を遣わし、魔物を鎮
めるためにお経をあげさせた。その後再び魔物が現れることは
なくなったと言う。その時あげたのが曼陀羅(まんだら)経で
あったことから、曼陀羅池(まんだらいけ)とここを呼ぶよう
になり、これが訛り、萬代池(まんだいいけ)になった」とさ
れている。また、「昔、阿倍野から本村にかけては雑木と雑草
が繁り、人家も遠く離れとても寂しく、夜などはほとんど通行
もないようなところに、あたかも魔の池のようにあったのでこ
のような伝説ができたようである。」といわれている。

現在の万代池公園は、子供向けの遊具も揃っており
ラジオ体操・太極拳・ランニング・ウォーキング・
飼い犬の散歩などで、多くの市民の憩いの場として
愛されている。

戦後に植えられた桜の木はりっぱに成長し、その満開
の頃は公園を白く浮かび上がらせる。また、四季を過
ごす水鳥に加え、冬に向かう頃には北からの渡り鳥も
多くやってきて、野鳥ファンのみならず、公園を訪れ
る人たちの楽しみのひとつでもある。